心地よい暮らしを ラフでいこう!笑っていこう!

ヨガ教師、こどもの命を守る仕事に従事しています。日々のこと。感じたこと。

うちの母

先週金曜日の姉からの電話以来、頭の引き出しが出し入れされて、思考が遠い過去に戻される時がある。

 

姉はすぐキレます。その話の内容は決まって母との関係。

母からされて嫌だったことを泣きながら話すのが、付き合っているメンヘラ女のお別れプレイのようで笑えます。

 

きっと母からされて嫌だったことは、私の方が客観的にみたら多かったはず。その話をするとあなたも気の毒だったと姉は言います。けど、わたしは辛かったと。

 

けれど、振り返ってみるとうちの母は

わりとお嬢様で農家ではありましたが田んぼが沢山あるそれも都会の娘。

あんな都会から嫁いできたという評判のいいお嫁さんでした。

小姑が三人いて、毎日だれかは来る。絶対来る。やってくる。自分の家のように振る舞う。そして、母の悪口を言う。

まぁ、ひどい典型的な家でした。

 

その中で、母は商売の才に目覚めます。あまり欲がない母は気前もよく、その頃喫茶店というものがなかった時代にお店を任されます。

その経緯は、祖父が妾にやらせようとしていたお店をやっぱりそれはバツが悪いといって急にお前やれと言って嫁にいきなりさせたそう。

 

それが当たったのです。

大繁盛。よく手伝いをしていたので覚えています。お店に立っていた母はキラキラしていました。母ではありませんでした。

20歳で嫁いできて、その頃30歳のころ。

 

母子関係など全く結びこともなく、仕事に逃げた母。

 

それから、まぁ、色々ありまして、わたしは母に残酷な宣告をしました。それは、小学生6年のころ。多分、精神的な病だったと思います。私の。我慢の限界だった。

 

母には、仕事をやめてほしいと。言いました。

 

すると、不思議とお店を他人に譲り、もとの家業へ専念するようになりました。理由は聞いたことはありませんが、多分景気も落ち着いて、祖父ともトラブル があり、戦い勝ったみたいです。もちろん同居生活。

 

それから、わたしは勉学に励み、順調な学生生活でした。

 

進学するときは反対して、許さなかった母ですが、母子関係がなっていないわたしはそんなのへっちゃらと無視をして出ていき、進んでいきます。

 

母に認められたいとか全く考えたこともなく、過ごしてきました。

 

母の良いところは、開き直るところ。

幼い頃寂しかったと話しても、「そんなんしらんわ、わたしゃこの家に嫁にきて姑にいじめられて小姑にいじめられて、生きて行くのも精一杯だったんや」と開き直り。まぁ見事です。

そして、努力して意思が固いところ。パソコンも独学でやるし、教えたら吸収する。

 

出来ないことをやってみようとするところ。

 

素晴らしいです。

 

なんの仕事もするにしても、わたしなら大丈夫とか、この仕事はあなたに向いてるとか

わりと好意的に発言してくれます。

助けたりはないですが。。

 

なので、否定的になったことはありません。

他人事と言ってもいいかもしれません。

 

姉とはまた、立ち位置が違うので 

わからないけど

 

とても、わたしの母は、すごいとか思ったことはありません。

 

それがわたしの自慢です。

 

期待されないという関係がどれだけ楽か?を教えてくれた人。まぁ、三人も子どもがいて興味がなかったんでしょう。

 

ちなみに弟がいますが、いつもニコニコしてて本当に優しいです。

今は家業を継いで、同居までしてくれている。頭が下がります。

 

うちの母は、弟が大好きだったので毎日幸せだと思います。

 

今は子どもが少なくて、過大な期待がお互いかかっていると思いますが、自分のことを大きく見せず、さぼったりお酒飲んだりだらしなくしたり、泣いたり、いろんな私でいます。

 

子どもたちからは、

立派なことは何にも出来ていない

そんなふうにみられている母と呼ばれたいと思っています。

 

うちの母は、ハイカラさんです。